
1190年、建久元年大河兼任の乱
この乱の勲功として陸奥国津軽の平賀郷が北条義時に与えられたと考えら
れております。(大鰐町史)
1193年、建久四年五月二十八年
曾我兄弟の仇討ち(詳細略)
この結果(?)曾我氏は北条氏の被官として密接な関係となっていきます。
曾我氏一族の所領は北奥のほかに伊豆国・武蔵国・相模国などにありました。
1219年、建保七年四月二七日
平広忠(曾我小次郎)は義時から平賀郡内岩楯村地頭代に補任されております。
北条義時から曾我氏が平賀郡内の各郷村の地頭代に補任されております。
この頃から曾我氏は津軽の北条家の領土(得宗領)の現地代官に任じられて、
津軽にやってきます。
曾我氏は助光系統は大光寺に、惟重系統は岩楯に居住するようになります。
(系図は最後にあります。)
1224年、貞応三年九月二十一日
「任故陸奥前司(義時)入道殿御時之例」
前例に従って曾我氏に平賀郡岩楯村が安堵されております。
1237年、嘉禎三年 三月一三日「泰時下文」(大鰐町史より)
「任夫沙弥西心、嘉禎二年三月六日譲状」
曾我広忠の妻伊豆田所女房が岩楯村地頭代職を安堵されております。
1242年、仁治三年十月二五日「経時下文」
「任今年四月十五日親父惟重譲状」
曾我光弘は大平賀郷新屋淵村・長峰村の地頭代職を安堵されております。
1247年、宝治元年 宝治合戦戦功
曾我光弘、勲功として名取郡土師塚郷の地頭代に補任されます。
曾我光弘は得宗被官として出陣しました。
1290年、正応三年
曾我泰光が鎌倉出仕を終えて陸奥に帰るために、関所通行の手形を
受けております。
1322年、元亨二年、
津軽安藤の乱
1326年、正中三年 「にしのはま合戦」
幕府は安藤内紛の争いに津軽得宗領の代官工藤祐貞を蝦夷討伐として
派遣しております。これに曾我一族も参戦しました。
曾我光頼等は安藤又太郎季長の根拠地の西浜まで攻め込んで、
又太郎季長を捕らえて鎌倉にかえっております。
曾我光頼は「にしのはま合戦」に出陣した際、息子に所領を譲渡しております。
1327年、嘉暦二年九月三日
曾我光頼譲状に「去年かせん」の「かせん」とは「にしのはま合戦」のことか?
1331年、元弘元年四月
後醍醐天皇、倒幕の「元弘の変」を起こして成功します。
奥州には北畠顕家が多賀国府にやってきました。
そして顕家は各地に郡奉行を置きます。
津軽には平賀景貞・糠部には南部師行・鹿角には成田頼時を置きました。
また、西浜と外ヶ浜には足利尊氏の奉行として尾張弾正左衛門が入ってきました。
1333年、曾我左衛門尉政綱下知状
曾我人々 相共常葉可警固之由
被仰下候 御書下如此候 乃執達如件
元弘三年六月三日 左衛門尉政綱(花押)
曾我左衛門太郎入道(光弥)殿
曾我左衛門尉政綱下知状
二階堂三辻役所警固 相共勤仕候畢
元弘三年十月十日 政綱
曾我乙房丸
元弘三年三月から十月までの鎌倉警護の下知状が曾我左衛門太郎入道
(光弥)と曾我光高に出ております。
曾我光高は朝廷方として警固にでかけたのがわかります。
この頃、曾我氏は大光寺曾我の道性(助光)と岩楯曾我の曾我光高に
分れておりました。
鎌倉幕府が倒れて、津軽には元北条方の名越時如(ときゆき)と安達高景が
逃げてきておりました。
平賀郡の大光寺曾我氏はこの両名を奉じて兵を挙げました。
この結果、同じ曾我氏が北条方と国府方(朝廷)に別れて戦うことになりました。
大光寺曾我氏の挙兵に対して、北畠顕家は尾張弾正左衛門を合戦奉行として
曾我光高・安藤五郎太郎高季(安藤氏)・工藤貞行(田舎郡)などに攻撃させます。
翌正月には圧倒的な兵力で大光寺曾我氏を殲滅してしまいます。
曾我光高申状案
前略
爰津軽大光寺合戦 光高家子若党等数輩 負手疵半死半生之間
合戦奉行人早河禅門並工藤中務右衛門尉尾張弾正左衛門尉
相共同所並陳室之間 記載注進之状上 守護凶徒召人
令参上之上者 仰上裁可然者 於所領者 重代当知行之上者
下賜安堵国宣 為全所領 恐々言上如件
元弘四年(1334)二月 日
(斉藤・遠野南部文書)
曾我光高軍忠注進状案
進上 於元弘三四両年 津軽平賀郡大光寺合戦次第
曾我乙房丸若党等所被疵交名注文事
一人 豊嶋三郎二郎時貞 左小うてお射抜候
一人 曾我弥三郎光貞 左小うてより脇下ゑうけとをされ候了 長柄 同日
一人 羽取次郎兵衛重泰 右うての上を射抜候了 十二月十一日
同正月八日 右目上を被射通了 半死半生
一人 はたさし彦太郎 右そりももを被射通了 正月八日
一人 矢木弥次郎 やりもてとう中をいられ候了 半死半生 同正月八日
一人 印東小四郎光継 左膝口を被射了 同日
右此条々 一事一言も偽令申候物者 奉始上梵天帝尺
惣日本国中大小神祗冥道神冥罰於原深可罷蒙候
仍起請之状如件
元弘四年正月十日 乙丸代沙弥道為(裏花押)
(遠野南部文書)
曾我光高は大光寺合戦でこれだけの犠牲を払って、奮闘したことを報告しております。
それは次の曾我氏が代々受け継いできた所領を安堵して貰いたいが為の布石でした。
曾我光高申状案
曾我太郎光高(童名乙房丸)謹言上
欲早任重代相伝知行被成下安堵
国宣 備亀鏡津軽平賀郡内岩楯 大平賀沼楯 村村並
奥州名取郡四郎丸郷内若四郎名等 全所領彌抽合戦忠勤事
副進
一巻 代々先御下文並外題等
二通 譲状並系図
右岩楯 大平賀村々者 重代相伝所領 知行于今無相違
次沼楯村者 光高親父曾我左衛門太郎入道光弥
自子息余一資光許被譲與 多年知行無相違
次四郎丸郷内若四郎名者 令荒廃田地雖為数ヶ年畠地
光高祖父寶治合戦勲功所領随一也而当知行于今無相違
爰津軽大光寺合戦 時光高(家子若党)等数輩
屓手被疵 半死半生之間 奉行人阿井新左衛門尉方令備進手負交名処
如返答者 在国合戦奉行人令進覧注進之時 可令備
進手負注文之由申 被返彼手負交名目安之了
随而朝敵余党人等 小鹿島並秋田城(今湊)楯築所々
可乱入津軽中之由 有其聞之間 国中給主御家人令集会
大阿个(lを小に換えた字=に)郷一之口 為防戦
元弘四年二月 日
(遠野南部文書)
切々と本領安堵を願い出ている様がわかります。
しかし、国府の対応は冷たく、所領安堵の国宣は出ませんでした。
曾我光高軍忠状
曾我太郎光高五月廿一日石河合戦事
分取頭
安五郎六郎頭 曾我与次之若党悪党名人也
四月十三日打取畢 御奉行平賀請取有之
曾我彦三郎頭
同与次若党頭 号赤河次郎
同中間四郎太郎頭
同中間又三郎頭 号安藤太
其外頭二 不知名字
次光高家人打死手負注文
恵藤孫七 若党蒙疵畢
孫三郎 中間打死畢
右合戦注文如件
建武元年六月 日
(遠野南部文書)
1334年、建武元年にもまた津軽で騒乱が起こります。
今度は石川城です。石川城に立て篭もったのは曾我氏の一族や
安藤氏・鎌倉の残党(?)などでした。国府は多田貞綱を津軽に派遣します。
ここでも曾我光高は多田貞綱や鹿角からの応援とともに石川城の包囲攻撃
に力を注ぎます。石川城は落城して、残党は持寄城に逃げ込みます。
戦い終了して上の状のように曾我光高は報告しております。
ところが、平賀郡沼楯村が鹿角の安保弥五郎に恩賞として与えられてしまいます。
沼楯村は曾我氏が代々所領としていた所で、その土地を安堵して貰いたいが為、
戦で奮闘してきたものでした。
曾我光高申状
曾我太郎光高謹言上
欲早御善政重蒙御下知 先渡下賜 国宣安堵地内所領
以津軽平賀郡内 沼楯 村被寄付安保弥五郎入道間事
副進
一通国宣安堵案
右於沼楯村者 為重代相伝所領之間
依無当知行相違下賜安堵国宣上者被付別人之条
不便次第也 凡光高者云 由緒相伝 当知行云
大光寺石河等 軍忠方々 難被寄置 理訴猶以無御信用
於弓箭家失面目者也 然早重下賜安堵 国宣
弥為令致合戦 恐惶言上如件
建武元年六月 日
(斎藤・遠野南部文書)
曾我光高は申状で沼楯村が安保弥五郎に与えられたのは間違いではないかと
激しく怒ります。
このため、「大日本史料」には「之を復せり」と元に戻したことになっております。
石河城の合戦で逃れた残党が持寄(もちよせ)城に立て篭もって抵抗を
続けておりました。
津軽の奉行となった多田貞綱と平賀景貞は功を争って不和になったため(?)、
北畠顕家は中条時長を新津軽奉行に任命しました。
持寄城ばかりではなく、外ヶ浜の安藤家季も騒乱を引き起こしました。
このため、北畠顕家は南部師行を始めとして国府方の武将を津軽に派遣します。
持寄城は十一月に落城してしまいます。
この合戦の恩賞として、南部師行は外ヶ浜の後潟と中郡の佐比内そして南郡の
中目村を所領として手にいれます。
この土地が南部氏が津軽へ進出するための布石となっていきました。
北畠顕家下文
下 津軽平賀郡
可令早曾我余一太郎貞光領知 当郡法師脇郷内(野辺左衛門五郎跡)
並沼楯村事
右為勲功賞所被宛行也者 早守先例 可致沙汰之状所仰如件
建武二年三月廿五日
(斎藤・遠野南部文書)
やっと曾我貞光に沼楯村が勲功として与えられました。
ここで出てきます曾我貞光は曾我光高と同一人物と考えられております。
1335年、建武二年中先代の乱がおこります。
これを鎮圧に行った足利尊氏はそのまま後醍醐天皇に反旗を翻します。
このため、北畠顕家は鎮守府将軍に任命されます。
十月二十九日、北畠顕家は安藤五郎太郎高季に旧領(外ヶ浜・中浜・西浜・宇曽利)を
安堵します。
十二月北畠顕家は足利尊氏討伐のため、奥州の武士を連れて鎌倉へ向かいました。
この間に足利方の斯波家長は安藤家季を津軽の合戦奉行に任命しました。
この安藤家季の許に曾我貞光(光高)と浅利清連(比内)が駆けつけております。
このため、いままで国府方であった曾我貞光(光高)は足利方に転向してしまいます。
1336年、建武三年五・六月足利方(安藤家季・曾我貞光・浅利清連等)は小栗山城
(倉光孫三郎、弘前市)を攻撃しましたが、逆に曾我氏の新里楯・堀越楯を攻撃され
ております。
八月には曾我氏は浅利氏と一緒に鹿角郡に攻め込んでおります。
中央では後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝をつくって、(のちに名付けられた)南北朝
時代が始まります。
1338年、延元三年五月河内の石津合戦で奥州軍が全滅してしまいます。
この時に北畠顕家・南部師行ともに戦死してしまいました。
その後津軽では国府方は南部政長を足利方は曾我貞光を中心にして南・北の軍勢
の争乱がひっきりなしに起こります。
1339年、延元4年、
曾我太郎貞光軍忠次第事
一去六月、安藤四郎以下御敵等、尻八楯打入、
依令致合戦、御奉行発向之時、同心致軍忠之間、
若党中間等、或打死、或手負、
分取不及注文御披見候了、
同九月廿三日、又御敵等、貞光楯寄来之時、
若党矢木弥次郎、同太郎、中野弥八、野呂彦八、
恵藤三郎、中間二郎太郎打死仕候了、
同十月、尾崎合戦之時、分取五人仕候了、
其外毎度合戦、於軍忠者、不可勝計、
仍賜御判形、為備後證、粗目安言上如件、
暦応二年十一月一日 承候了(花押)
(安藤太師季)
1340年、興国元年鎮守府将軍北畠顕信(北畠顕家の弟)は日和山城に入りました。
1341年、興国2年4月南部政長勢は南下して、和賀氏・稗貫氏を一蹴して、
宮城県栗駒郡三迫で北朝方と対峙している北畠顕信に合流しようとしておりました。
ところが、南部政長がさらに南下しようとしているときに、その本拠糠部が津軽の
曽我貞光等に襲われました。このため、南部勢は退却しております。
曾我と安藤の連合軍は奥大道沿いに鹿角を通って糠部郡に攻め込んだものでした。
この攻防戦は翌興国三年の秋まで続きました。
この戦いで曾我貞光が負傷したのを始め、負傷者が相次ぎ、根城を落とすことが
できずに津軽に引き上げてしまいます。
この間の事情は次の文章によって窺い知れます。
1347年、正平二年
曾我貞光申状案
曾我余一左衛門尉貞光謹言上
(前略)
一 同四年(暦応)六月 曾我左衛門尉師助賜御教書
令発向凶徒南部六郎政長等城郭糠部之処
同御敵滝瀬彦次郎入道以下打塞路次
攻防戦之間
自同年六月至翌年七月 数十ヶ度合戦仁
或貞光自身被疵
或若党以下手勢数百人同被疵
討死之上若干凶徒等打取之畢
此條師助連々令注進之間
被下御感御教書畢
巨細師助之一見状
矣以前條々相 恐々言上如件
貞和三年五月 日
(遠野南部文書)
1361年、正平十六年
参御方致忠節者 殊可被抽賞之由 依将軍仰執達如件
正平十六年正月十八日 左近将監清雅奉
曾我周防次郎殿
(遠野南部文書)
この後の曾我氏は史上に出てまいりません。
そして、その曾我氏の文書が遠野南部家に「遠野南部文書」として残っております。
このことより1361年頃に曾我氏は八戸(根城)南部に滅ぼされたものと考えられます。
奥州津軽の曾我氏は1219年から1361年の142年間平賀郡を中心に領主として
支配したあとに滅んでしまいました。
曾我氏系図
曾我検校時広ー真光ー┳助光・・・・太郎兵衛入道道性ー重経ー貞光(太郎)
┗惟重ー光広ー泰光ー光頼ー光高ー資光
参考文献
大鰐町史
八戸根城と南部家文書
奥羽南北朝史
津軽諸城の研究