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前 九 年 の 役

   安倍一族の滅亡
 
 

弘仁のころの征討によって、陸奥は紫波付近まで朝廷の支配下

に組み入れられました。

その後は「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長とせよ」に

よって酋長を決められ、その酋長(俘囚長)による間接統治のかたち

をとっておりました。

安倍氏は頼良の祖父忠頼の時に東夷の酋長に任じられております。

朝廷の威力が衰えてからは奥六郡に威風が行き渡って、部落は皆

安倍氏に服しておりました。安倍氏の勢力は旺盛で、衣川の外にま

で土地を拡げようとして、さらに政府の役務を怠り、税金も納めなく

なってきました。

このころ(1050年、永承5年)国司として多賀城に赴任してきた藤原登任

は朝廷に奏して、安倍氏を征することを請っております。

これを受けて朝廷は安倍氏の討伐を決めます。そして、秋田城介平繁成

にも討伐の応援に出向くように命令します。

こうして両軍は鬼切部で激突しました。


 
 

鬼切部の戦い(1051年、永承6年11月)

平繁成は2000の兵隊を出羽(秋田)方面から多賀城へと向かい、

藤原登任は3000の兵隊で北上を開始しました。

この両軍が合流して、鬼切部で安倍頼良の俘囚軍と衝突しました。

時は11月。この戦いは先鋒の平繁成の軍が崩れ、本隊の藤原登任

がこれに代わって戦っているうちに安倍貞任・宗任の一隊が背後に

回って攻撃したため、官軍が大敗しております。

官軍(国府軍)は散を乱して壊走しております。

官軍は死するもの甚だ多しということだったようです。

藤原登任は都に帰って、官位を取り上げられたあとは出家しております。
 

源頼義の出陣(1052年、永承7年3月)

この藤原登任の後任に朝廷は源頼義を陸奥の守に任命します。

頼良は安倍氏討伐の準備にはいります。

この時、関白頼通の妹の上東門院藤原彰子が病気になって、

その病気平癒祈願のために全国に大赦の布告が出ました。

5月6日、この大赦は安倍氏にも適応されました。

安倍頼良はこれを受け入れて、恭順して名前も頼良から頼時に変えております。

1053年、天喜元年には源頼義は鎮守府将軍に任じられております。

戦いの矛は納められ、藤原経清(源氏の武将)と安倍頼時の娘との

婚儀もあり、しばらくは奥州に平穏な日々が続きます。
 

阿久利河の事件(1056年、天喜4年)

源頼義は4年間の任期の終わりに、府務のため胆澤の鎮守府に入りました。

安倍頼時は駿馬や金寶を贈って従順に振る舞っておりました。

源頼義は巡検も終わって、多賀城への帰途、阿久利河にさしかかりました。

この時に事件が起こりました。

この巡視の一行に陸奥権守藤原説貞の子光貞・元貞もおりましたが、

この阿久利河の辺に野営しているとき、光貞兄弟の営を襲って人馬を殺傷

して引き上げた者がおりました。

この光貞は襲撃犯人を安倍貞任におい被せます。

源頼義は大いに怒り、貞任を召しだして罰しようとしました。

安倍頼時はこれを聞いて、「人倫の世にあるは皆妻子のためなり、貞任

愚なりと雖も、父子の愛は棄忘する能はず。」といって貞任の召還を拒否します。

これは源頼義の思うつぼでした。
 

金為時の戦い(1056年、天喜4年8月)

安倍頼時は衣川を閉鎖して、公然と反旗を翻します。

源頼義は板東から兵隊を集めます。その数数万。

この頼義軍には安倍頼時の娘婿の平永衡(ながひら)と藤原経清(つねきよ)

も加わっておりました。

ところが平永衡は自分だけ銀の兜を被っておりました。

これを頼義に次のように告げ口するものがおりました。

「平永衡は兜を違わせているのは賊に対する目印で、自分を射させないためだ。」。

このため、平永衡は殺されてしまいます。

もう一人の娘婿の藤原経清は心おだやかではありませんでした。

藤原経清は「安倍頼時は軽騎を放って間道を通って多賀の国府を攻めて将軍以下

の妻子を捕らえようとしている」という流言を流します。

このため、頼義は軍を多賀城に引き返させてしました。

この隙に藤原経清とその私兵800人は衣川の関に入って安倍軍と合流しております。

頼義が引き上げるときには、後詰は金為時に任せられます。

金為時については「 気仙 」に一部出ております。

金為時は気仙の人で、大原・渋民を経由して衣川の関を側面から

攻撃しております。このため、安倍軍は引き上げる頼義軍を追撃

することができませんでした。金為時は3000の兵隊で北上川の

東岸に到達しました。ここで金為時は安倍軍の安倍良昭(小松の柵)

の弟安倍為元の渡河を待ち伏せて一斉に射かけて殲滅させております。

翌日は安倍良昭本軍との戦いになりましたが、決着はつきませんでした。

金為時は後詰がなくて、だんだん劣勢になってきたため、軍を引き上げて帰りました。
 

安倍頼時の死(1057年、天喜5年7月)

源頼義の任期が切れて、朝廷は後任として藤原良綱を陸奥守に任命しました。

しかし、良綱は恐れをなして辞退してしまいました。

朝廷はやむを得ず源頼義を再任しております。

翌年(天喜5年)頼義は一計を案じます。

北に住む安倍一族の安倍富忠を味方に引き入れようと画策します。

この項は 安倍富忠の戦い を参考願います。

この結果安倍頼時は鳥海の柵で死亡しました。
 

黄海の戦い(1057年、天喜5年11月)

安倍頼時の死を機に一気に残党を殲滅しようと、源頼義は兵隊

1800余りを率いて北上してきました。

これを頼時の息子の安倍貞任が聞いて、4000余騎でもって

川崎の柵(東磐井郡川崎村)に集結しました。

両軍は近くの黄海(きのみ)で衝突しました。

厳冬の吹雪のなかの戦いで、頼義軍は寡兵の上に食料不足で

疲労困憊していた状態で戦闘が始まったものですから、安倍軍

に大敗を喫しております。戦死者は数百人になりました。

そのうえ、源頼義・義家父子はわずか6騎になって、貞任軍

の重囲に陥ってしまいます。頼義父子等はかろうじて隙をついて

逃げて、やっと国府に辿り着きました。

この結果、安倍貞任の勢力は衣川以南にも及んできました。

藤原経清は諸郡に白符を使って租調(税など)を上納させております。

(国府は税を徴収するのに赤符を使っておりましたので、これに

対抗する意味で白符を使ったものです。)
 

狄賊清原一族の加勢

源頼義は官軍だけでは安倍貞任にかなわないと悟って、次の手を打ちます。

それは出羽に勢力を持っている狄賊の清原一族を味方に引き入れることです。

頼義は珍しいものを送ったりして、清原兄弟の歓心を買おうとしますが、

なかなか兄弟は肯じえませんでした。

日時が経ち、康平5年になって頼義の2度目の任期も終わってしまいました。

後任には高階朝臣経重が陸奥国守となって陸奥に下りましたが、

現地の人はみんな前の国司に従ったため、高階経重は帰洛しております。

源頼義は援兵を清原光頼・武則に求めた結果、ついにこの年7月

清原武則は萬余の兵隊を連れて陸奥にやってきました。

頼義は喜んで、3000余人を率いて7月27日に戦いを起こしました。

8月9日に栗原郡の営崗(たむろがおか)に到着しました。

8月16日、諸軍の押領使を定めております。

第一陣 清原武貞(武則の子)

第二陣 橘貞頼(武則の甥)

第三陣 吉彦(きみこの)秀武(武則の甥)

第四陣 橘頼貞(貞頼の弟)

第五陣 源頼義

第六陣 吉美候武忠

第七陣 清原武道
 

小松の柵の戦い(1062年、康平5年8月17日)

源頼義・清原武則の連合軍が13000人余りの兵隊でもってまず

小松の柵(一関市)に襲いかかりました。(8月17日

小松の柵は東南に深流が流れ、後ろに切り立った岩が塞がっている要害の地でした。

ここを守るのは貞任の叔父の僧良昭でした。

要害のため、城柵を攻めても容易に侵入できるとは思われませんでした。

ここに、兵士深江是則・大伴員季等20人の決死隊が崖をよじ登って、

城中に乱入しました。このため、城中は混乱して安倍勢は潰敗しました。

安倍宗任が800人で城外に撃って出ましたが、第5陣まで攻めていって

力が尽きてしまいました。第7陣の清原武道にも宗任の精兵30人ばかり

が襲いかかりましたが、敗れてしまいます。

この戦いで安倍軍の死者は60人、負傷者は数え切れないほどでした。

官軍の死者は15人負傷者は150人でした。

官軍は小松の柵を破ったあと、現地に留まって食料の確保に方々へ

兵隊を送ります。このため、本陣が手薄になって、6500余りの兵隊しか

おりませんでした。このありさまを見た安倍貞任は8000余騎をもって

官軍の陣所を襲いました。

これが最大の雌雄を分ける戦いでした。

貞任の大軍は磐井川を渡って官軍と激突しました。

於是将軍置陣如常山蛇勢。

士卒奮呼声動天地。

両陣相対交鋒大戦。

自午至酉。義家義綱等虎視鷹楊。

斬将抜旗。貞任等遂以敗北。

その結果、安倍軍に利あらず、官軍が大勝しました。

安倍軍は川におぼれたり、高岸から落ちたり、して散りじりになってしまいました。

このときの戦いで安倍軍は百余人が殺され、馬300余頭を奪われました。
 

高梨の宿・石坂の柵の戦い

安倍貞任軍を潰滅状態に陥れた官軍はその晩清原武則が精兵

800余人で追撃をはじめます。

安倍貞任軍は高梨の宿と石坂の柵にはいっておりましたが、

ここに武則軍の決死隊50人がもぐりこんで火を放ちました。

これに耐えきれず、この両柵を捨てて衣川の柵に逃げ込みました。

歩兵も騎兵も迷い、巌に打たれ、谷に落ちました。

30余町の内に倒れ死んだ人や馬は乱麻のようでした。

肝胆地を塗らし、膏腴(こうゆ)野を潤す!
 

衣川の柵の戦い(康平5年9月6日)

衣川の関は道が狭くて嶮しくて、函谷関にも引けをとらないともいわれた

要害の地でした。関の東側を北上川が、南側を衣川が流れて自然の壕渠

となっておりました。攻撃は三カ所から始まりました。

清原武貞は関の道の正面から押し寄せて、頼義は西の上津衣川道を進んで、

清原武則は東の関下道を進みました。

午後2時から8時まで攻撃して9人が戦死して80余人が負傷しました。

武則はここで兵士沼太郎久清ら30人を密かに柵の中に忍び込ませ、

安倍宗任の腹心の大藤内業近の柵に放火させました。

安倍勢はこの火災に驚き、混乱しておりました。

この隙に、官軍は激しく攻め立てました。

このため、さしもの衣川の関もわずか1日で陥落してしまいます。

安倍貞任は衣川の関を脱出して鳥海の柵に逃げ込みました。

安倍勢の死傷者は70余人になりました。
 

鳥海の柵の酒(康平5年9月11日)

9月7日には衣川の関を破った官軍は白鳥の柵に向かいます。

この白鳥の柵は頼時の八男白鳥八郎行任の居城でしたが、

衣川が敗れてしまった現在その地に留まることができなくて逃げ去りました。

その北に位置する大麻生野(前沢)及び瀬原の両柵も抵抗しましたが、

官軍の敵ではありませんでした。

安倍軍の捕虜の口から安倍軍の主な武将がすでに数十人死亡

しているという話がもたらされます。

9月11日には官軍は鳥海の柵(金ヶ崎)に到着しました。

この柵に着いてみるとすでに安倍宗任・藤原経清は厨川の柵に

逃げてしまった後で、人一人っ子おりませんでした。

柵のなかに酒数十甑(こしき)あるのをみつけました。

一人が試飲して毒でないことがわかると、軍兵一同これを飲んで万歳を叫びました。
 

三柵の陥落

鳥海の柵で休養をとった清原武則は黒沢尻の柵(北上市)に襲いかかりました。

この黒沢尻の柵は安倍四郎正任が守っておりました。

官軍の勢いが強く、安倍軍は32人の死者と多くの負傷者をだして、

敗れております。

つぎに9月14日には鶴脛(つるはぎ)の柵(花巻市)も比與鳥の柵(紫波町)

もつぎつぎに官軍に破られてしまいます。

そして、とうとう翌9月15日の夕方官軍は厨川の関を包囲します。
 

厨川の関の戦い(康平5年9月16・17日)

9月15日に官軍は厨川の関(盛岡市)ならびに嫗戸(うばこ)の柵に到着しました。

厨川の関と嫗戸の柵は東を北上川で南を雫石川で隔てられ、

北西には大沢があって川岸は3丈ほど壁立しておりました。

柵の上には櫓を構え、柵と川の間には隍(ほり)があってその底には

白刃を逆さに立てて、地上には菱形の鉄片をまき散らしておりました。

柵の中には弩(ど)を備え遠いものはこれで射、近づくものには石を

投げて打ち、さらに柵の下に近づくものには沸湯を浴びせかけました。

官軍が到着したときには安倍方は柵の楼上から「戦はば来れ」と

招いていいました。そして、数十人の女の人に歌を唄わせてからかったりしました。

頼義は深くこれを憎しんで、翌日16日から一日中攻撃しました。

終日終夜、集めた弩を乱発し、矢石は雨のようでした。

官軍に数百人の死者がでました。

17日には頼義は「村落の家を壊して運び城の隍(ほり)を埋めよ、付近の原野から萱草を

刈ってはこんでこちら側の川岸に積め」と命令しました。

わずかの間に山のようになりました。

そして、これに自ら火を付けます。折からの強風で火の勢い強く、

官軍の矢が櫓に突き刺さって蓑(みの)のようになっているところに

火の粉がついて燃えだし、あっという間に柵中に延焼してしまいました。

柵の中にいた男女数千人はこの有様に悲泣し、潰乱し阿鼻叫喚の

坩堝と化しました。この機に官軍は水を渡って攻め入りました。

安倍軍の数百人が必死の思いで囲みを破って立ち向かってきました。

このために官軍に多くの戦死者をだしました。

清原武則はこの有様を見て、包囲陣の一画を開くように命じました。

安倍軍はそこに殺到しましたが官軍は横から攻撃し、悉くを殺しました。

この戦いで安倍方の武将はほとんど戦死してしまいました。

藤原経清は捕らえられましたが、頼義の憎しみが強く、処刑されてしまいます。
 

安倍一族の滅亡

安倍貞任は弟比浦六朗重任と共に数十騎を率いて打って出ました。

頼義・義家のいずれかと刺し違えて死のうとしたのです。

官軍これをみて、新方二郎・権太郎光貞・藤原茂頼等が迎え撃ちます。

出羽の人金澤十朗は安倍貞任と格闘して貞任を倒しますが、

その時流れ矢が飛んできて十朗の目に当たりました。

貞任は頼義の陣に向かいますが、その行く手を藤原季俊・物部長頼等

が阻んで組み付いてきました。貞任は腋楯の透から胸を深く刺されますが、

この両人を討ち、さらに進もうとしました。

官兵が群がり集まってきて貞任を刺したため、ついに倒れました。

貞任は頼義の下に運ばれますが、頼義の顔を一目みてから絶命しました。

貞任は身長6尺余り、腰の回り7尺4寸、容貌魁偉、皮膚肥白、風采誠に

堂々たり。享年34才でした。

比浦六朗重任は義家の陣に斬り入りましたが、捕らえられ、頼義の命で斬り殺されております。

安倍宗任は水を潜って柵外に逃れ出て逃亡します。

貞任の子:千世童子はこの時13才でした。容貌は美麗でした。

甲を被って柵の外に出て戦いました。

頼義は之を憐れんで許そうとおもいましたが、武則進んで言うには、

「莫思小義忘巨害」。頼義は頷いて斬りました。

城中に美女数十人おりました。皆、綾羅を着て、

悉く金翠で粧っておりました。煙に交じって悲しく泣いておりました。

之を出して、軍士に賜っております。

貞任の叔父の安倍赤村介為元と弟の安倍家任等も帰降しました。

一時は逃げていた宗任も数日後9人とともに降参しました。

これで安倍一族は滅亡しました。

12月17日の國解では「斬獲賊徒安倍貞任。同重任。藤原経清。散位平孝忠。藤原重久。

散位物部惟正。藤原経光。同正綱。同正元。帰降者安倍宗任。弟家任。則任。散位安倍為元。

金為行。同則行。同経永。藤原業近。同頼久。同遠久等也。」

康平6年2月16日、貞任・重任・経清の首は京に送られました。

この功績で源頼義は正4位下伊予の守に、太郎義家は従5位下出羽の守に、

次郎義綱は左衛門尉に、清原武則は従5位下鎮守府将軍に任じられました。
 
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